2024年9月28日土曜日

私の幸せは私が決める……当たり前の話だが

 明日は私の誕生日だ

何をしようか、いろいろ迷った結果

自分用にプレゼントを買い

日帰り温泉にでかけて

長寿を祝うことにした


という話を職場でしていたら

息子さんもお孫さんもおられるのに

遊びに行ったりしないんですか

せっかく休みがもらえるのに、と言われた

……私の職場は、妙にのんびりしたところがあり

  誕生日休暇というのをもらえる

  自分の誕生日に休みをもらっても良いし

  子供や孫の誕生日にもらってもよい

  土日と重なっているときは

  翌週の月曜日に振り替えもできる

  なので、かなりの割合で

  遠方に住んでいる子供の顔を

  見に行く人が多いのも事実ではあるのだが……


私は、特に考えなかった、と答えた

パソコンにスカイプを入れているので

話したいときにはいつでも、

無料の「テレビ電話」ができるようなものだから

特に、わざわざ出向いていこうという気にもならない

ファイナンシャルプランナー1級の試験にも

落ちてしまったことだし(まだ自己採点ではあるが)

来年の試験に向けて、リベンジ用の勉強にも忙しい

それに、わが愛猫を一人で放っておいて

息子のいる大阪まで旅行をする気にもなれない


なので、何の気なしに

ソロ活ですよ、一人暮らしなので、と答えたところ

思いもかけず

最大限に同情されてしまった


悪いことを聞いてしまって、ごめんなさいね、と

丁寧に謝られた挙句

お寂しいでしょうね

心細くありませんか

私にできることがあったら

なんでも、お声をかけてくださいね、と

実に、丁寧なごあいさつまで、いただいてしまった


こういうのを、若者言葉で

「胸がモニョモニョする」とか「モニョる」というらしい


このご婦人は、実に善意の方なのだ

私に対して、マウントを撮ろうという気など

さらさらない

まるで、一人暮らしで要介護のご老人に対するように

私を思いやってくれただけなのだ

悪意があるなら

皮肉の一つでも言い返してやったのだが

完全な善意に対しては、そうもいくまい

ただ、「そうじゃないんだけどな」

「わかってないな」と、ため息交じりに

言いたくなるような

妙な違和感と、疲れと、

言葉は通じているのに、意味の通じない

なんとも言えない、虚しさが

つのってくるのだ


だが

この善意が、全くもって、的外れなのだ


私は、息子とは血はつながっているものの

気も合わなければ、話も合わない

ついでに言えば、食べ物の好みも合わない

一緒にいたところで

何も話すことがなく

気まずい沈黙が漂っているだけだ

これなら、ツタヤでDVDでも借りてきて

大好きな、三谷幸喜の映画でも見ている方が

ずっと楽しいし、リフレッシュできる


温泉で、ゆっくりと体を伸ばし

ずっと前から読みたかった文庫本を1冊と

テキストだけをおともに

サウナだ、ウォータースライダーだ、ジャグジーだと

遊び倒した後で

温泉の庭をそぞろ歩き

レストランで、好物の十割そばを

天ざるでいただいたら

パーカウンターに行き

特性の、ノンアルコールカクテルも作ってもらおう

お土産は、そばかりんとうでどうだろうか、と

考えだけでも、脳内がアルファ派で

満たされるような思いがするのだが

どうやら、客観的にみると

敬老の日や、誕生日や、年末年始に

子どもが帰省しない、私の立場は

孤独で、みじめなもののようだ


実に、うっとおしい

「世間」と言っても、実態があるわけではない

伝統的に、そう思われてきた

現在も、そう思っている人が多い、という

単なる、多数派の意見に過ぎない

そして、多数派が必ずしも正しいわけではないのは

第二次世界大戦の

大政翼賛会を見れば、明らかだろう


集団で生活しているときには

波風を立てないために

集団の多数派の考え方に

「長いものには巻かれ」なくては

ならないこともあるのは、十分承知している


だが

集団生活を強制され

周りに合わせ、周りと同じでなくてはならなかった

小・中学校や、高校の時代は、もう終わったのだ

自分の頭で考え、自分の意志に従って

生きられる年齢

特に、役職定年になってからは

仕事の比重もどんどん少なくなり

その分だけ、自分の好きなように

生きることのできる、時間とエネルギーを

もらったようなものなのに

いまさら、「世間並みのこと」を追いかけて

疲労困憊するのは、まっぴらごめんなのだ


私が何をすれば、幸せになれるか

60年も生きてくれば

なんとか、わかってくる


私の幸せは、私が決める

世間の幸せと、私の幸せが同じではないからと言って

善意の圧力は、ご遠慮申し上げたい


この年になったら

自分が、機嫌よく過ごすため

幸せに生きていくために

すべての努力を注ぎ込みたいと思っている

それが、他人と同じだろうと、違っていようと

早い話が

「大きなお世話」なのだ


とりあえず、今日は一日

「私なりの幸せ」に過ごせた日だった

一日分の幸せに感謝しながら

猫と一緒に、眠るとしよう


では、おやすみなさい





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